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赤倉山神社縁起

大正5年: 工藤むらは、自分の子供の病気を治したくて神信仰の道に入った。そして、当時の大浦村の八幡宮へ願掛けを始め、3年3ヶ月の間、毎日水ごりをして、日参りの行(ぎょう)を重ねた。

大正8年: 3年3ヶ月の満願成就と共に、工藤むらは、よその人のことまでよく分かるようになり、村の人が寄ってくるようになってきた。占ってもらったり、病気のことを祈ってもらったりするためである。

 同年10月。赤倉の神が工藤むらの枕元に立ち、お告げを授ける。

大正9年: 工藤むらは、夢のことがだんだん気になり、船沢村宮館の前田源司という行者に頼んで、赤倉へ連れて行ってもらった。

大正10年: 3月から12月まで、月に3度赤倉へ登って行(ぎょう)をした。12月に再び、神のお告げを受けた。

大正11年: 旧の1月2日。大石神社に籠り、1週間の行にはいった。

大正12年10月: 神のお告げがあり、信者と共に社を建てる準備にかかる。

大正12年: 赤倉に三間に四間のお堂を建てた。

昭和2年: 神のお告げで、工藤むらの高弟である安田に、板柳町の高増神社(責任者 安田健之助)を建てさせることにする。高増神社は、昭和5年に竣工した。

 同年6月14日、工藤むらは、無免許で病気治し等をしていたので医師法違反の疑いで弘前警察署に2日間拘留される。

昭和8年: 高増神社の安田と一緒に、再び警察署に7日間拘留された。

昭和16年: 霊堂を建て直し、新たな宮造りをする。

昭和21年: 娘(さだ)が、満州から引き揚げてきて、22年から工藤むらの手伝いとして赤倉山に登り修行にはいる。

昭和26年: 瑞穂教赤倉山神社となる。奥の院を現在宝泉院のある場所におく。

昭和29年: 観音様を建てる。この時、神言を授かる。

昭和36年: 赤倉山の信者の供養塔をたてるために、宝泉院に奥の院の土地をゆずり渡す。

昭和37年: 工藤むらが老境にはいったので、神さだが、9月30日、岩手県の保健婦を退職し、38年5月より再び赤倉山へ登り、後継者として勤める。

霊堂は20余堂と増えていた。

この年、奥の院を現在地へ移動し、供養堂建設のために、宝泉院に対する協力を信者へ要請する。

昭和39年: 工藤むら 代表役員退任

昭和39年: 神 兵五郎 代表役員に就任

昭和40年: 2月16日。工藤むら、79歳の生涯を閉じる。5月、再び神言を授かる。

宝泉院では、赤倉山神社を宿舎にして供養堂建築工事にかかる。

昭和54年: 2月16日。親神様のお告げを受ける。

昭和55年: 大鳥居建立の準備に取り掛かる。

 

津軽の荒吐神伝承と赤倉信仰(文芸協会出版)太田文雄 著より一部引用

 

昭和56年: 神 兵五郎 永眠。

昭和56年: 神 サダ、代表役員に就任。

昭和57年6月: 大鳥居建立。

平成元年: 神 サダ、永眠

平成元年: 神 勝美、代表役員(宮司)に就任。

令和4年1月15日: 神 勝美、永眠

令和4年5月10日: 神 裕典、代表役員(宮司)に就任。

現在に至る。